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金子工業の歴史

金子工業の歴史

初代・金子太一が独立起業、時代は戦争へ

金子太一氏

金子工業株式会社の創業者である金子太一は大正5年(1916)、益田郡下呂町上呂で生まれました。昭和7年(1932)に県立益田農林学校(現益田高校)を卒業と同時に、親戚が営む建設業の丸喜組に入社。事務方を兼ねての現場回りと経理を担当し、一心不乱に働いて土木建築事業者としての技術を磨きました。

昭和10年(1935)、「土木建築請負業・金子土木」の看板を掲げて独立。机ひとつで始まった事業でしたが、その年に太一は徴兵され、第九団の金沢騎兵第九連隊へ入隊しました。

厳しい服務規定に耐えて、初年兵の教育係として任務を遂行し、昭和14年(1939)に除隊。その頃になると、国家総動員法によって経済や産業、国民の暮らしも戦争のために統制されていきました。

軍需工事や戦時建設団に従事

昭和16年(1941)、第二次世界大戦勃発によって企業統合が進められ、飛騨地方でも飛騨一市三郡をひとつとする㈱山王組が発足。山王組に参加できない小規模事業者による鳶土工工事組合も結成されました。

働き盛りの男子がほとんど徴用される中での工事作業は苦難そのもの。戦時下の工事は軍の物資を入れる穴を山腹に掘削することや、各軍需工場要員のバラックの建設などが中心です。高山の各学校も、床を張り替えて工場に変更。陸軍の研究実験所建設のために乗鞍山頂までの軍用道路も作られました。

昭和19年(1944)には戦時建設団が結成されて軍の直接監督のもとに仕事をすることになり、太一も飛騨を中心とした200名の労務者の小隊長として、本州への石炭輸送力強化を図るために函館本線の延長工事に携わりました。

やがて日本が劣勢になってくると、軍は学徒動員を収集。昭和20年(1945)5月には、太一のところにも北伊勢陸軍飛行場特攻基地での防空任務の召集令状が届きました。しかし同年、広島・長崎に原子爆弾が落とされ、日本は無条件降伏を受け入れて終戦。金子土木の、約10年にわたる戦争との関わりはようやく幕を下ろしたのです。

  • 軍需工事や戦時建設団に従事
  • 軍需工事や戦時建設団に従事

戦後復興さなかの法人化で、歴史に残る大事業に参入

終戦後、復興に向けて日本は動き出しましたが、軍需省の閉鎖で工事は中止。これまで行ってきた工事代金も支払ってもらえず、金子土木は経済的な困難を強いられました。 その後軍需省に代わって戦災復興院が設置され、建設業界の主務官庁として占領軍の監視のもとに復興作業を開始。金子土木もその作業に動員されました。作業内容は、戦争によってそのままにされていた荒れ放題の道路や河川、橋梁や公共施設の工事。当時はインフレが進み、太一は建設資材の不足や労務者の食料確保などに追われる毎日を送りました。

こうした苦難のさなか、太一は戦後の復興を見据えて昭和22年(1947)、資本金18万円で金子興業(株)を設立し、個人企業を法人化。上呂に製材所を配し、営林署から木材の払い下げを受けて、戦後復興に沸く岐阜や名古屋方面へと出荷しました。また戦前から農林省が行っていた上野平の開墾事業を、農林省直轄として引き継いだのです。昭和24年(1949)には社名を金子工業とし、開墾事業に注力しました。

標高約800mの高台に広がる上野平の開墾事業は、その大半が丹生川村方面から引く水路工事。幹線や支線水路を合わせると何万mもの規模になる、当時の最高技術を駆使して行う大工事です。工区は第一工区から第三工区まで分かれ、金子工業は第一工区を担当。その後、豪雨で崩壊した他の工区の災害復興工事も任されました。総工費5億600万円の巨額を投じて行われた開墾事業は昭和28年(1953)に完成。この大工事で、金子工業の実力と功績が認められたのです。

当時は終戦時の不況が続いた時代で、こうした大事業に携わる金子工業にとっても、最も苦しい時期でもありました。しかし昭和26年(1951)、朝鮮動乱による特需景気が到来すると、益田川、宮川、庄川水系とも電源開発が次々と行われ、災害復旧工事も優先的に行われるようになりました。金子工業も景気の波に乗るために、昭和28年(1953)に荻原町の現在地に本社事務所を建築。鉄筋工場や資材倉庫などの諸施設も配し、建設会社として盤石な基礎を固めたのです。

オリンピック景気による大規模事業施工で成長

昭和39年(1964)の東京オリンピック開催を機に東海道新幹線や名神高速道路、東名高速道路など大型プロジェクトが続々と完成し、国内景気は一気に上昇。飛騨地方も、飛騨ブームと呼ばれる観光ラッシュが起こりました。また、農場の圃場整備や農地造成など、農村近代化の整備や防災ダムの建築も加速。森林地帯の大規模林道建設や鉄筋コンクリートを使った永久橋の建設なども進められ、金子工業もこうした施工を次々と引き受けて安定した成長を遂げていきました。

昭和43年(1968)には待望の国道41号線が開通。それにともない、飛騨地方は観光やレクリエーション、スポーツ施設の開発が進み、国道や幹線道路の整備も進行。金子工業は平湯トンネルの乗鞍インターチェンジ建設を施工しました。また下呂市と中津川市を結ぶ国道257号線の舞台峠大橋施工も担当。昭和56年(1981)、モダンな長大橋が完成しました。

地方の建設会社として初めて発電所建設に携わったのも金子工業です。昭和48年(1973)に中部電力中呂発電所の本工事第二工区を請け負い、以後も大手建設会社とともに発電所建設に参画し、その実力を認められてきました。

  • オリンピック景気による大規模事業施工で成長
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社員と仲間の健康、安全管理や社会貢献にも尽力

これらの大型工事を受注するにあたっては中小の業者が協業化することも大切です。金子工業は昭和45年(1970)、馬瀬村の4つの建設業者による「馬瀬建設協業組合」を発足。昭和46年(1971)にも金山町の4つの企業をまとめて「金山土木協業組合」を発足させ、体質改善と協業化のモデルケースとして県内外から注目を集めました。

このように昭和元禄時代と呼ばれる景気に沸いた日本ですが、一転して昭和48年(1973)に石油危機が到来。不況のどん底に直面し、公共投資のストップや資材不足、建設コストの上昇など建設業界にも大きな危機をもたらしました。建設業協会会長を担っていた太一は、日々官公庁へ赴き、事態の対応に奔走し続けたのです。

また人間社会において「一番大切なのは人の命」と日々考えていた太一は、社員や協会仲間の健康と安全を守ることにも尽力しました。特に工事現場において万が一ケガや事故で輸血が必要となった場合は「いつでも、どこでも献血します」と宣言。以来、毎年多くの社員が献血を行い、健康社会に寄与。「徳は金よりも尊し」を有言実行し、安全管理日本一の企業をめざして邁進し続けています。

  • 社員と仲間の健康、安全管理や社会貢献にも尽力
  • 社員と仲間の健康、安全管理や社会貢献にも尽力

“誠意”を理念に、信頼される仕事で貢献

創立以来、多岐にわたる仕事を手がけてきた金子工業。時にはピンチに遭うこともありましたが、常に“誠意”を持って対応することを忘れず、多くの施主から信頼されて今日まで歩んできています。

その一例として、昭和59年(1984)、崇教真光世界総本山の大神殿を建設。地下1階、地上3階、延べ面積30,679㎡に及ぶ建物は飛騨始まって以来の大事業といわれるほどで、式典には各国大使や国会、県会議員、飛騨一市三郡の名士らが出席したほか、国内外の神組み手の方々8800人が参列し大変盛大に行われました。

また神殿とは別に、参拝のために全国から訪れる組み手のための待機所も金子工業が施工。造成も含めて昭和58年(1983)に完成させています。

飛騨初の専門学校、飛騨国際工芸学園の建設も金子工業が行っています。高山市が提供する漆垣内地内の広大な山林丘陵地に建てるにあたり、測量から設計、造成、建築工事まですべて施工。学生が新たな知識や感性を磨く場所にふさわしい教育環境となりました。

金子工業は建築以外の事業でも地域貢献を推進してまいりました。高山初のゴルフ場として知られる飛騨高山カントリークラブは、地元の思いに背中を押される形で金子工業を母体とする飛騨高山観光開発㈱が運営しています。ゴルフ場を通じて地域活性化はもとより、地域の方々との心のふれあいをより一層大切にしていきます。

建設業は今や日本の基幹産業です。金子工業はこれからも建設業界と地域社会の発展を常に念頭に置き、施主の皆さまはもちろんのこと、社員や協力企業が幸せになれるような仕事に取り組んでいきたいと考えています。

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